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先日、モダン・アート界の重鎮、草間弥生のエキシビションを観にいった時のことだった。2人の中高年女性が「この人、精神病じゃない?」「気持ち悪い」と言って、まるで「健康のためのウォーキング」のような速度で作品群の前を通り過ぎて行った場面に遭遇した。いまどき美術館まで足を運びつつ、そんなことを言う人が存在するのかと刹那、耳を疑ったけれども、彼女たちの正直すぎる意見は、この美術館に足を運んでいない人たちの多数意見なのだろうか?と思ったりもした。
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暗雲が深く立ちこめ、冷たい強風が吹きすさぶ荒涼とした土地。昔、火山の噴火で溶岩が街を襲ったこともある。島の住人は親切だがどことなくよそよそしい。そんな厳しい自然環境と未知の世界を精神科医コーラが歩く姿は、まるで患者ロアの心の闇を彷徨っているようでもある。
意外なことに、患者ロアには夫と子供がいた。ロアは普通に主婦としての仕事をし、食品工場でも働いている。放浪癖があり、時に奇行を繰り返す彼女に、夫は手を焼きつつも、彼女が「病気」であると認めない。島の担当医もロアに治療を施す必要はないという。都会からやったきた精神科医は無力感に襲われる。
厳しい自然環境と同じく、彼女をありのまま受け入れる島の生活、と彼女をを隔離して矯正しようとする都市社会。ロアにとって、どちらが幸せなのだろうか?精神病理学を学んだ女性監督は問いかける。
18世紀以降、社会は「正常」ではないと判断された人々を隔離してきた。それは精神医学の成立を意味する。「理性」と「狂気」はそれ以来、交流不能になり、「狂気」は封じ込められた。
この映画の中では、ロアが精神医学上どういう病気なのか、限定しないし、説明もしない。彼女は本当に「病んでいる」のかどうか、我々は彼女を凝視し、彼女の一挙手一投足を見守るしかない。それが監督の狙いでもある。
クライマックスで理性的な精神科医コーラが常軌を逸する行動に出ようとするのだが、実は「正常」といわれる人が「狂気」を孕んでいることも現代社会では明白な事実だ。我々の中にも、そばにも「狂気」は存在する。
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ミシェル・フーコーが『狂気の歴史』の中で、「理性と非理性の間にある空白」を埋めるのは、「理性」と「狂気」の対話である、そんなことを言っていたと思う。それは、多分、理性だけでは捉えきれないアート作品を理解ようとする行為に似ているのではないかと、草間弥生の水玉模様のくねくねしたオブジェと戯れながら、思うのだった。(★★★カネコマサアキ)
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