フィルム・ノワールの枠組みを踏襲しながら、どこか幻想的な世界を描いているところは鈴木清順、クールな殺し屋という点ではJ.P.メルヴィルなんかを思い起こさせるが、物語の根底には、ジャームッシュ映画にしては、かなり政治色の強いメッセージがあるように思う。
殺し屋にはジャームッシュ映画の常連、イザック・ド・バンコレ。彼は黒人奴隷を数多く排出したコートジボワール出身である。物語は、黒人の暗殺者が、どうやら世界を牛耳っているらしい白い要塞の中の完璧な「安全地帯」にいるアメリカ人を殺しに行くという物語である。それは、9.11のアメリカの安全保障神話を覆したあのテロを思い出すし、黒人の血が流れるオバマ現大統領が、世界を混沌とさせたアメリカの新自由主義者たちに、引導を渡す姿と重なって見えたりもする。
男はカフェに入ると、必ず2つのエスプレッソコーヒーを頼む。ウェイターが1つのカップに2杯分入れて持ってくると、「そうじゃない、2つのカップで持ってこい!」という。その2つのコーヒーカップに込められた意味とは何だろう?「世界は一つ」という教条主義的なグローバリズムの視点ではなく、「もう一つの世界」を認めるというオルタナティブな視点を持つことへの啓蒙ではないだろうか。男はかつてイスラム教が浸透していたマドリード、セビージャを彷徨し、自身の国を持たないマイノリティであるボヘミアン=ロマたちと出会う。また、劇中でミニチュアも出てくるのだが、カトリック教徒の攻撃から守るためにアラブ人が建てたという「黄金の塔」(トレ・デル・オロ)も象徴的に扱われている。これはラストの白い砦への伏線になっているのだろう。
主人公はそういった土地の歴史にも触れながら、次々と境界線を超えて行く。「宇宙には中心も辺境もない」、工藤夕貴が演じる分子(モレスキュール)はそんなことを言っていた。タイトルはLimits of control「支配の及ぶ範囲」。ラストに出てくる文章は、No Limits No Control 「境界線がなければ、支配もない」。誤訳かもしれないが、そんな風に受け取った。そこには、自由と支配、中心と周縁、国家・・・そんなキーワードが浮かんで来る。アメリカの一極中心主義、グローバリズム批判はもうすっかり食傷気味なテーマだが、旅人や放浪者の視点からそれを捉えるところが、ジャームッシュ監督らしい気がした。こんな解釈は野暮だろうか。(カネコマサアキ ★★★☆)