沈没日記
蔵前仁一
定価:本体価格1456円+税
(税込価格1529円)解説
旅行人の本
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安宿で一安心
旅行から日本に帰ってくると仕事が待っている。日本で行う仕事は時間との戦いで、毎日が締め切りとの格闘だ。僕は自分のやっている仕事が好きなので、よほど時間に追われない限り、仕事に嫌気がさすことはない。趣味なんだか、仕事なんだかよくわからないような作業を年中やっているのだ。
ここ何年も1、2年仕事をしては、1、2年旅に出るというパターンを繰り返していたが、今はそれもままならず、半年くらい仕事をして、数週間から1カ月の旅をする感じになっている。長ければいいというものでもないので、1カ月の旅でもそれなりに楽しんでいるが、本音は半年くらいふらふらしていたいなあと思わないでもない。
先日、久しぶりにバンコクへ行ったが、ずっと常宿にしていたホテルを離れ、初めての宿に泊まった。僕が旅先で宿泊するホテルは、普通の日本人が一般的にイメージするようなホテルではなく、いわゆる「安宿」で、バンコクだと1泊4〜500円くらいの部屋だ。トイレとシャワーが付いていればいい方で、中にあるのはベッドと机と扇風機だけ。クーラーなどは無論ない。
妙なもので、このような安宿ばかり泊まり歩いてきたせいか、僕は安宿のベッドに寝転がると、えも言われぬ解放感にひたれるのである。もちろん僕だって5つ星のホテルに泊まった経験がないわけではない。豪華で柔らかなベッド、お湯も水もじゃんじゃん出るバスタブ付きのシャワー。洗面台にはシャワーも石鹸も揃っているし、机の上には便箋も封筒もボールペンも備え付けてあり、そして、冷蔵庫の中には飲物一式が収まってもいる。たまに泊まると、そういう設備にいちいち驚いたり感心したりする。いつだったか、友人に、自分が泊まった高級ホテルの話をし、部屋にはクーラーも冷蔵庫もあったと自慢したら、それが当たり前なのだと諭されたことがあったっけ。
だが、僕にはどうもそれが落ち着かないのである。設備については申し分ない。お湯のシャワーが出ることにもちろん文句は言わないし、便箋だってあると便利だ。だが、快適で便利であることと、解放感を得るということは、僕にとってはどうも別物なのだ。
はっきり言って安宿の部屋の中には何もない。べッドに寝転がって見えるのは、ぷるんぷるんとまわっている扇風機と、薄汚れた天井くらいのものだ。下に敷いたシーツが取り替えてないことなど珍しくないし、たいてい窓からの景色もよくない。蚊が出てうるさい。暑くて眠れない。隣の客の話し声も露骨に聞こえてくる。
なのに、僕はそんなひどい部屋の中で、心の底からほっとするのだ。いったい何故なのだろう。
バンコクの安宿で僕はそういった気分を久しぶりに味わった。もしかしたら、忙しかった日本の生活から解き放たれたばかりだったせいかもしれないが、それにしても僕にとって安宿のべッドはあまりにも居心地がよいのだった。
第一に、やはり何もないのがよいのだろう。お湯の出るシャワーなど日本の生活ではごく当然のことだが、暑いバンコクではあまり必要性を感じない。風邪をひくのでクーラーはもともと嫌いだ。冷蔵庫に飲物が入っていても、料金が気になり安心して飲んでいられないたちなので、結局それもなくてよい。逆に、きれいさっぱりないことが、僕の心を落ち着かせてくれるのである。
なんだか、やせ我慢に感じるかもしれないが、僕は何も我慢などしていない。日本でたくさんのモノに囲まれ、究極の便利さの中で生活し、その至便さを喜んでいる僕が、不便な安宿で安心するのもおかしな話だが、それは紛れもない事実なのだ。大画面テレビとビデオを持っている僕は、番組を録画しそれを見なければならない(自分が見たいという欲望を満足させなければならない)。洋服ダンスを持っていると、中に服を詰め、かわるがわる着なければならない。そしてそれらを便利な全自動洗濯機で洗う。簡単だからこまめに洗わなくっちゃね。その間にパソコンのスイッチを入れて原稿を書こう。こんな普通の生活が僕の周囲にあり、いかに便利であるかを知り、喜んで使っている。たった今も。
安宿にいると、僕を取り囲んでいたモノ、そしてモノに依存していた〈快適さ〉がすべて消滅する。まるで幻のように。あの生活はいったい何だったのかとめまいがおきるほどだ。着るものは必要最低限のTシャツとズボンと下着だけ。それを手で洗う。しばしば断水に襲われるので、なるべく少量の水で洗濯しようと洗剤などもあまり使わない。テレビもないのでヒマ潰しに誰かと話をしたり、日記を書いたり、手紙を書いたり、読み終わった本を繰り返し読んだり、または……ただボンヤリしている。
生活が不便になるのは否定できない。洗濯は手でしなければならないし、コンビニはないので夜中に飲物も買えない。机がないと手紙もうまく書けないし、テレビがないと明日の天気もわからない。
だが、実際に僕がそういう不便をさほど不便と感じないのには理由がある。例えば、洗濯を手でするといっても、何枚も洗うわけではないのだし、やらなければならないことといったら飯を食うことと洗濯くらいのものなのだ。机がなければ手紙なんか書かなくてよいのであり、明日の天気が雨だったら外に出なくてもよいのである。だから少しも不便ではないのだ。
日本での生活は、それを快適にしようとすればするほど何かが必要であり、時間を使わないことが大切なことになってくる。それが〈便利〉であるとされるのだ。場所と季節によって服を着替えない人間はいないし、ビデオを見たことのない人はいない。それはそれでよいのだが、何もない安宿で僕がほっと安心するのは、そういった諸々のモノからの解放感なのだろうと思うのである。