アジア雑語林(89) 2004年12月12日
1977年の海外旅行(2)
引き続き『海外旅行案内』1977年版から、当時の海外旅行事情を紹介する。
「旅費はいくらかかるか」という項目の文章をそのまま引用してみる。きっと、驚くだろう。
「各国の旅行経費を比較して最も高価な部類に属するものは米国、フランス、スイス、ドイ
ツ、イタリア、ベルギー、英国、ギリシャ、及びアルゼンチン、インドネシア、フィリピンなどで、次いでスウェーデン、エジプト、オランダ、デンマーク、ブ
ラジル、の諸国。割りに安くすむのはスペイン、ポルトガル、の国々である」
アメリカやフランスと並んでインドネシアとフィリピンが入っているのをきっと奇異に感じるだろう。じつは、この文章は60年代の版から手が加えられずにそのまま載っているもので、77年当時ではすでに事情は変わっているはずだ。
フィリピンがなぜ物価の高い国に分類されているのかわからないが、インドネシアの場合はこういうことだろう。1964年の話だが、インドネシアの通貨ルピ
アは1ドルが515ルピアと規定されていた。これは旅行者用レートで実勢レートは2500ルピアだから、外国人は実際の物価の5倍くらいの料金を支払って
いたことになる。高級ホテルはドル払いでしかもかなり高額に設定してあるので、外国人にはアメリカ並みの物価(日本より高い!)ということになる。
私が初めてインドネシアに行ったのは74年で、その当時も闇両替がまだ残っていたが、公定レートより数パーセントいいという程度だったから、もはやアメリカ並みの物価ではなかったが、タイよりはだいぶ高かった。
次は「外貨購入手続き」
当時、持ち出せる外貨は3000ドルまでだった。日本円をもって銀行に行き、「海外渡航のための渡航前買入れ等承認申請書」3通を書き、パスポートを添
えて提出すると、その日本円相当分の外貨が購入できた。いくら購入したかという記録はパスポートに記入された。おかしな制度だったのは、例えば500ドル
両替して、出発前に臨時収入が10万円あったから、これも両替しようとしても、拒否されることだ。つまり、両替は3000ドル以内であっても一度しかでき
なかった。
当時はまだ予防接種が必要だったが、そういう話をすると長くなるし、アジア文庫のホームページを読んでいる人には残念ながら若い人はいないだろうから、中高年の読者は予防接種の話はすでに事情がわかっていると解釈して省略する。
書きたいと思ったのは、クレジットカードのことだ。1977年当時に海外でクレジットカードを使っていた日本人はそう多くはないだろうし、私などクレジットカードを手にしたのはほんの数年前なので、当時のクレジットカード事情など想像もできない。
『海外旅行案内』によれば、海外でクレジットカードを使うには、次のような手続きをするそうだ。
・まず国内用のカード会員になる(おそらく、審査は大変厳しかっただろう)。
・パスポート番号と国内カードの番号を記入した「国際カード発行申請書」を提出する。
・使用限度額は3000ドル以内だが、現金やトラベラーズチェックも必要なので、それらの金額を差し引いた額を申請する。つまり、クレジットカードだからといって、3000ドル以上使えるというわけではない。
・国際カードは原則として一回の渡航にのみ有効で、しかも有効期限が短いらしい。
「服装」
「女性の場合、洋装の方が活動的で便利だが、着物で行けばあちらの流行も気にしないですむ上に、高級品でなくとも結構立派に見えるから経済的である」
こういう文章は昔の版から変わらずに載っている。いつまで「着物がいい」と書いていたのか不明だが、77年当時ならまだ「着物で海外旅行」という人がいたかなあ。
こうやって書き出すときりがないので、最後に機内食について触れておこう。
「食事の時間にはもちろん無料で食事が出る」 有料だと思っていた人がいても不思議ではないが、当時、酒は有料という航空会社が多かった(大きな航空会社
は有料だった)から、トラブルも多かったと思う。実際に、「どんどん勧めるからどんどん飲んだら、あとでカネを請求された、インド航空らしいぜ」と言って
いた旅行者がいた。
「食事時間が途中の着陸地点に相当する時には地上でサービスを受ける」 機内食について調べていてわかったのは、初期のころは、食事は空港でとっていたのだ。航続距離が短いから、途中に何度もとまり、その間空港で休憩するわけだから、その時間を食事にも使うのだ。
ビジネス客やツアー客は、できるだけ早く目的地に到着して欲しいだろうが、長時間機内に閉じ込められるのがいやな私は、3時間ごとに空港で休憩したり、
ゆっくりと食事をしたい(当然、空港内喫煙可が望ましい)。そのほうが絶対に優雅な空の旅だ。大多数の人は「変だよ」と思うだろうが、私は途中降機の多い
路線が好きだ。そのせいもあって、太平洋路線には魅力がない。
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アジア雑語林(88) 2004年12月4日
1977年の海外旅行(1)
古本屋の特価本コーナーで、『海外旅行案内』(日本交通公社)の1977年版を見つけた。定価は4800円で、古本屋では通常2000円から3000円くらいの値段がついている。これが100円だから、もちろん買った。
日本交通公社が戦後初めて発行した本格的海外旅行のガイドブックは、1952年の『外国旅行案内』で、毎年改定して出版された。1977年に『海外旅行案内』と書名が変わり、82年まで出版された。
この書名変更でもわかるように、昔は「外国旅行」と言っていて、「海外旅行」という言葉は新しいらしい。その『外国旅行案内』も68年版をすでに持ってい
るが、その内容を紹介するのではあまりに隔世の感がありすぎるので、77年版から当時の海外旅行事情をちょっと紹介してみよう。
本題に入る前に、これから航空運賃などさまざまな値段が出てくるので、77年ころの物価を『値段の風俗史』(朝日文庫)からいくつか書き出してみよう。
カレーライス
350円
ラーメン 280円
日産ブルーバード
960,000円
帝国ホテル(シングル) 6,000円
小学校教員初任給 92,756円
ということは、若いサラリーマンの月給はだいたい十数万円ということになる。だから、この『海外旅行案内』は一日分の稼ぎに相当する。今なら一万数千円の本ということになる。
さて、本題に入る。「旅行計画と費用」 この項で76年現在のLOOK(交通公社の海外ツアー)の料金を紹介している。
・世界一周(21日間)
1,090,000円
・グランドハワイ(8日間) 290,000円
・ラスベガスとアメリカ西部・ハワイ(9日間) 468,000円
・ヨーロッパルート22(22日間) 725,000円
・バリ島・ボロブドールの遺跡と東南アジア(11日間)
385,000円
・デラックス香港・マカオ(4日間)
188,000円
いずれも料金が高いツアーを紹介しているようだが、香港への安いツアーなら、月給分くらいで海外旅行ができるようになった時代だとわかる。ちょっと無理して、ハワイに新婚旅行という時代の始まりでもある。
70年代初めに、航空運賃の団体料金が大幅に割引されて、ツアー料金が60年代のものと比べていっきに半額ほども安くなった結果が上記の料金だ。ツアー
に参加すれば、以前と比べて海外旅行は身近なものになったが(あくまでも60年代の料金と比べてということであって、現在と比べてという意味ではない)、
個人旅行はまだまだ高い。航空運賃が高いからだ。
そこで、次に当時の航空運賃を紹介してみよう。東京発のエコノミークラス片道運賃である。ちなみに、当時はまだ格安航空券は「知る人ぞ知る」という程度
の存在で、旅行業界に強いコネがある人か、私のように貧乏だがヒマがあるという若者が探しまくってやっと見つかるというような存在だった。
航空運賃
カトマンズ 170,000円
カルカッタ 155,000円
クアラルンプール 122,000円
ジャカルタ 141,000円
シンガポール 123,900円
バンコク 112,700円
ソウル 34,400円
ホンコン 77,300円
グアム 55,000円
ホノルル 124,100円
シドニー 230,700円
カイロ 271,700円
ナイロビ 266,200円
サンフランシスコ 154,600円
ニューヨーク 204,000円
サンパウロ 309,700円
ヨーロッパ全都市 312,500円
ただし周遊料金という
のがあって、たとえば14日以上21日以内という規定を守れば安くなるというのだが、安いといっても往復運賃の1割引き程度だから、割安感などない。東
京・ホノルルの往復運賃は248,200円で、周遊料金は230,500円だから、その差額はわずか17,700円でしかない。
この時代に、日本人がタイ旅行を計画したとする。ツアーではなく個人旅行をするとしたら、往復運賃は約23万円だ。現地滞在費も含めて30万円の海外旅
行とすれば、3か月分の月給を費やすことになる。現在なら60万円以上の旅ということになる。正攻法ではこういう計算になってしまうから、貧乏だけどヒマ
はあるという若者は、安い船を探し出したり、学生割引きを探したり、旅行社に通ってコネを作ったりしたのである。
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アジア雑語林(83) 2004年10月19日
東ティモールとポルトガル語
インドネシア研究ではよく知られた学者が、国際交流基金アジア講座で東ティモールの話をした。
その学者は、東ティモールの苦難の歴史と独立達成の喜びを語っていたが、私は懐疑的にその話を聞いていた。かつてポルトガルの植民地だった東ティモール
は、ポルトガルの手を離れたあとインドネシアに編入された。インドネシアの政府と軍は、独立の動きを封じるために、東ティモールで乱暴狼藉をはたらいた。
そういう歴史があるから、インドネシアから独立すること自体に反対しているわけではないが、研究者なら将来の経済的展望にも言及すべきだと思った。もうひ
とつ、公用語の問題も気にかかっていたので、講義終了後の質疑応答の時間に、私は次のような質問をした。
「東ティモールは大油田地帯ではないし、ダイアモンドや金の大鉱山があるわけでもありません。大観光地でもありません。だからこそ、インドネシア政府は独
立を認めたわけですが、東ティモールの独立後の経済についてどう考えますか」 この質問に対する学者の解答は、驚くべきものだった。
「あそこはコーヒーの産地です。だから、経済的にもなんの問題もありません」
コーヒー栽培だけで国家経済が成り立つなら、コーヒー生産国はみな豊かになっている。経済的に見れば、インドネシアの東ティモール支配は赤字だった。道
路や学校の建設にカネを使っているが、その支出を上回る税収があったわけではない。諸外国の援助なしには国家経営が成り立たないのだ。西欧世界が東ティ
モール独立に暖かい視線を送っていたのは、イスラム教国からキリスト教徒居住地域が独立するからであって、もしその逆だったら、西欧世界は冷ややかに見て
いただろう。そういうことも踏まえて、独立問題を語るべきなのに、その学者は一切触れなかった。
公用語に対する質問というのは、こういうことだ。
東ティモールには、10を越える少数言語があるが、共通語としてテトゥン語がある。インドネシア支配時代には学校教育ではインドネシア語が使われてき
た。テレビやラジオの言葉もインドネシア語だ。だから、住民たちは場によって、この3言語を使い分けてきたわけだ。独立にさいして、公用語を決めなければ
いけなくなった。選択枝は次の3つだろうと私は思っていた。
1.テトゥン語にする……話者は多いから日常生活では混乱はないが、教育や行政の言語ではないので、実現は難しい。
2.インドネシア語にする……憎きインドネシアの言葉など使いたくないだろうが、名を捨て実をとるという柔軟な考えなら、これが一番実現性がある。国民の負担も少ない。
3.英語にする……当分の間はテトゥン語との併用だが、しだいに英語の重要性を高める。シンガポールのやり方だ。
独立して、政府が選んだ言語はなんとポルト
ガル語だった。独立運動の活動家たちはポルトガルに亡命していたから、ポルトガル語には不自由はないだろうが、国民の大多数にはまったくなじみのない言語
だ。独立しても、家庭では従来どおり少数言語を使い、広い地域では共通語としてテトゥン語を使い、インドネシアとは国境を接しているから、引き続きインド
ネシア語は必要で、学校では英語も覚えなければならないだろう。それに加えて、公用語としてポルトガル語の学習である。これは無茶だと思ったので、その学
者の意見を聞きたかった。こんな解答だった。
「ポルトガル語は、ポルトガルはもちろん、ブラジルでも使っているちゃんとした言葉です。問題ないでしょ」
ポルトガル語がブラジル以外にも、サントメ・プリンシペやガボ・ベルデやアンゴラなどで使われているのは知っている。それが、ポルトガル人も理解できな
いほどに変容しているのも知っている。しかしだ、「ちゃんとした言葉だから、問題ない」は、ないでしょ。楽観的なのにも程がある。大反論を展開したかった
が、時間的に一問一答しかできないようなので、遠慮せざるをえなかった。
のちに、あるジャーナリストにこのときの話をすると、経済問題について彼はこう言った。
「戦後独立した国で、経済的に外国の援助なしに国家経営している国なんて、産油国でもなければほとんどないですよ。とくにアフリカや太平洋地域なんかそう
でしょ。だから、政治的に独立するというのは、たいていの場合、『経済など全面的に援助をよろしく』という意味なんですよ」
こういう説明ならわかる。コーヒーを売れば、それで国家経済が安泰などと考えている経済音痴の学者が実在することがわかっただけでも、あの講座は価値があったとするべきか。
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