アジア雑語林(31)〜(40) |
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アジア雑語林(40) 2003年11月16日
言葉の話 (1) 「上等」という言葉と沖縄
インドネシアの女優、クリスティン・ハキムさんが来日して、自身が主演した映画について語る会があった。その映画は悲劇的な結末(意地悪い言い方をすれ
ば、お涙頂戴の結末)で終わるのだが、私は「主役の女性は、どんな境遇でも、しぶとく、ずぶとく生き抜く女に描いたほうがおもしろかったのでは?」と、質
問とも意見ともつかぬことを言った。彼女は、私の意見をおもしろがったが、その結末がいいとは言わなかった。 会が終わって、会場を出るとき、クリスティ
ンさんが私に近づき、なにやら言った。すぐさま後ろにいた人が通訳してくれた。
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アジア雑語林(39) 2003年11月9日 間違いやすいアジア アジア関係の本を読んでいると、さまざまな書き手が同じ事柄で間違っているということがある。ガイドブックなどの記述を鵜呑みにしたせいだったり、うっかり勘違いしたものもあるだろうが、こんな間違いがしばしば登場する。
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アジア雑語林(38) 2003年10月31日 イギリス人、カレーを食べる 宮本常一の『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』(平凡社ライブラリー)は、明 治初めに日本を旅行したイギリスの旅行作家の作品を、民俗学者が解読し、解説した本だ。この本で、バードが秋田でカレーを食べたという記述があることを 知った。『日本奥地紀行』(イサベラ・バード、高梨健吉訳、平凡社東洋文庫、1973年)はずいぶん前に読んでいるから、そんな個所があったという記憶が ない。そこで本棚からその本を取り出して、秋田の部分を開いた。すると、カレーの部分に傍線が引いてある。
このページの下部には、「秋田、1878年に!」という書き込みがあるうえに、付箋まで
張ってある。それなのに、まったく覚えていなかったのにガックリきた。読み飛ばした部分ならまだしも、書き込みまでしていながら、まるで覚えていないとい
う貧弱な記憶力にちょっと自己嫌悪になった。しかし、これなどまだいいほうで、数年前にある書店で石毛直道さんの新刊を見つけ、うれしくなってすぐ買い、
帰宅して読み始めたら、つい数週間前に読みおえた本だと気がついた。安くない本だということもあって、これはかなり落ち込んだ。記憶力が減退すると、不経
済である。ただし、同じ本を何度読んでも、初めて読む気になれるほどの記憶力なら、かえって経済的ともいえる。
通訳と料理を含む雑用すべては、「清国人のウォン」が担当していた。
この部分以外にもカレーが登場しているかもしれないが、記憶がない。装備は長崎で揃えた ものや、朝鮮に着いてから入手したものや、イギリスから運んで来たものもあるだろうが、カレー粉は19世紀初めに製品化されたイギリス製のC&B社のもの だろう。19世紀末のイギリスでは、カレーはすでにかなり普及した料理だった。 余談をしておくと、この本の奥付上に、著者略歴がでている。
「うん?」と疑問に思うでしょ。1904年に死んでいる人が、1979年に結婚するわけ
はない。「1879年」の誤植ではないかと調べてみたが、そうでもないらしい。1880年に婚約し、結婚は1881年。改姓した年号はわからないが、結婚
前に姓を変えるかな。出版業界内部の話をすると、こういう著者紹介は編集者が書くことが多く、しかもあまり熱心に校正しない部分である。じつは、私の本に
も同じような誤植があるから、他人事ではないのである。
不勉強とはいえ、イギリス人が、19世紀の朝鮮旅行にも南極探検にも、カレー粉を持って行くほどカレーが好きだとは知らなかった。 |
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アジア雑語林(37) 2003年10月22日 東南アジアのインド料理 サイゴン篇 夕方のサイゴンをさまよい、うまそうな屋台を見つけて夕御飯を食べた。そのあと、いつも
のように腹ごなしの散歩をしていたら、住宅地のなかに「インド料理」という看板を見つけた。ベトナムとインドは、イメージのなかでどうも結びつかない。マ
レーシアやシンガポールはもちろんビルマや香港も、元英国植民地にはインド人(インド亜大陸)の出身者が住んでいても不思議ではないが、ベトナムのイメー
ジのなかにインドの影はない。東南アジアのなかで、インド文化の影響をほとんど受けていないのが、ベトナムとフィリピンで、だからトウガラシをたっぷり
使った料理がほとんどない。
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アジア雑語林(36) 2003年10月15日 東南アジアのインド料理 バンコク篇
インドには都合3回行った。最後に行ったのは1978年だから、長らく行っていないことになるのだが、なにか特別な理由があるわけではない。「行きたい」
という情熱がまったく湧いてこないだけだ。東南アジアの安楽・平穏・微笑に慣れてしまうと、我田引水・唯我独尊・百戦錬磨・手練手管のインド世界にはどう
しても足が遠のいてしまうのだ。 |
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アジア雑語林(35) 2003年10月7日 神田神保町 聖橋口から 何年も神田を歩いていると、しだいにその巡回路がだいたい決まってくる。決まりきったコースはおもしろくないので、ときどきコースを変えるものの、立ち寄る本屋はだいたい決まっている。
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アジア雑語林(34) 2003年10月1日 ヨルダンのアメリカ人 1975年の晩秋、私はヨルダンの首都アンマンにいた。 |
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アジア雑語林(33) 2003年9月24日 神田神保町 成人篇
高校を出て建設作業員になったから、金銭的余裕はできたが、稼いだカネは国内旅行に使ってしまい、相変わらずの貧乏だった。海外旅行のために貯金をしなけ
ればいけないということはわかっていても、ある程度のカネがたまると国内旅行に使ってしまった。本を好きなだけ読みたいという欲望は変わらずあり、20歳
のころは「いつか1万円持ってこの街に来るぞ」と思っていた。そのころは、財布に1万円札が入っていることはあったが、そのカネを全部本に使う気はなかっ
た。 |
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アジア雑語林(32) 2003年9月17日
神田神保町 高校篇 60年代末から70年代初めが、私の高校時代だ。高校生になると、神田に行く機会が多く
なった。小遣いを多少多くもらえるようになったこともあるが、本と映画以外にカネを使わなかったせいでもある。級友たちは、レッドツェペリンだ、サンタナ
だとロックのレコードを買っていたり、VANだJUNだと服にカネをかけたり、あるいはオートバイにカネを注いでいたが、私はそんなことに興味はなかっ
た。音楽はラジオで聞くだけで充分だった。深夜までラジオを聞いていれば、ジャズもロックも民族音楽だってタダで聞くことができた。 |
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アジア雑語林(31) 2003年9月11日 神田神保町 中学篇 初めて神田に足を踏み入れたのは、1965年だった。中学1年生だった。
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