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アジア雑語林(170) 2007年1月26日
続編 全国のタイ料理店 この雑語林の135号(2006年2月8日)で、日本全国のタイ料理店事情を紹介した。インターネットの情報では、全国に451軒のタイ料理店があるというはなしで、数が多い順位ベスト10を紹介した。
無医村ならぬ無タイ料理店県は、秋田、石川、福井、滋賀、和歌山、島根、鳥取、四国4県。
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アジア雑語林(169) 2007年1月15日
日本タイ協会 ネット古書店で、こんな本を見つけてすぐさま買った。『タイ民衆の生活
—伝統的世界・近代的世界—』(ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、小泉康一訳、財団法人日本タイ協会、1982年、非売品)だ。すでに井村文化事業社か
ら出ている本と重なる部分があるのかどうかわからなかったが、この著者の本なら重なる危険性を犯してでも買っておこうと思って注文した。 明治32年生まれ わからない事柄が少々わかった結果、調べたくなる事柄がまた増えてしまった。
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アジア雑語林(168) 2007年1月7日 夢の古本屋 定年退職したら古本屋をやりたいという夢を持っている人は少なくないらしい。あるいは、
定年を待たずに副業として、インターネット古書店をやっているという人もいるらしい。世間一般では、古本屋というのは陰気な商売だと思われているような気
がするが、一部の本好きには憧れの、夢の職業に見えるらしい。
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アジア雑語林(167) 2006年12月27日
続・リバーサルフィルム 雑誌の取材で、長野県の馬籠(まごめ)に行ったときだ。
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アジア雑語林(166) 2006年12月19日
リバーサルフィルム
先日、タイで撮影したフィルムの現像が今日できる予定なので、買い物がてら夕方にでも店に寄ってみようかと考えていたら、いままで使ってきたリバーサル
フィルム(スライド用フィルム)のことをいろいろ思い出した。というのも、今回のタイ旅行で初めて、従来のフィルム式カメラに加えて、デジタルカメラも
使ってみたので、いずれ消え去るであろうフィルムに対してちょっと感傷的になっていたのである。
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アジア雑語林(165) 2006年12月11日
『世界の旅』時代の執筆者 海外旅行が自由化されたのが1964年だが、その少し前に、中央公論社から『世界の旅』
(編集委員/大宅壮一、桑原武夫、阿川弘之 定価360円)という10巻本が刊行された。もう少し時代があとなら、このような企画でカラー写真を多く使っ
た「見るだけのガイド」が各社から出版されるようになる。海外旅行は制度的には自由になっても、金銭的にはまだまだ不自由な時代だったから、「使える旅行
ガイド」は、まださほど必要なかったのだ。中央公論社の『世界の旅』シリーズの場合は、そのまた以前の状態で、カラー写真さえない。見る本ではなく、読む
本だ。ガイドになる文章も載っているが、おおむね旅行の心構えと、教養を基本とした内容だ。旅行本の内容を時代の変化であらためて見ていくと、まずは頭を
刺激する本が出て、次に目を刺激するビジュアル本がでて、その次は手や足や口を動かす実用ガイドの時代になるのだ。だから、1960年代初頭のこのシリー
ズは、教養本の時代である。
たぶん、70年代に入ったころだろうが、この第1巻だけは古本屋で買っている。日本脱出
の準備をしているときで、その資料として買ったのだと思う。そして、つい最近、1960年代の日本人の東南アジア知識がどの程度だったのか知りたくて、
ネット古書店で第8巻の「中国・東南アジア」を買った。「ネット古書店」で、とあえて書いたのは、詳しい内容がよくわからずに注文したということだ。
東南アジア部分の解説をしておく。桑原の「ジャヴァの十日間」は、雑誌「世界」(1960年5月号)からの再録。1959年に開かれたユネスコの国際会議に出席したときの紀行文だ。
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アジア雑語林(164) 2006年11月30日
『建築家なしの建築』 紆余曲折ののち、ひとまわりして1979年のあの日に戻ったらしい。
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アジア雑語林(163) 2006年11月21日
年表は、恐ろしい。 この雑語林の156号で、デンバーの吉野家のことを書いた。あの店が吉野家の海外第一号
店だということは知っていたが、いつ開店したのかは知らなかった。はっきり言えば、そこまで詳しく調べてみようとは思わなかったのだ。それが、ひょんなこ
とでわかった。開店は1975年2月だった。たまたま古本屋で見つけた、『日本の食文化と外食産業』(財団法人 外食産業総合調査研究センター編、ビジネ
ス社、1992年)についている「年表 外食産業の歩み」(川口和治・作成)に出ていたのだ。 ●東京では、1960年代後半から、札幌ラーメンが姿を見せたらしい。65年に、「札幌や」第一号店が渋谷にオープンし、67年には「どさん子」が両国にオープンしている。 ●1967年11月「立食そばの誠和食品が大阪へ進出。この頃、立食い形式(スタンド食 堂)がブーム」というのだが、それ以前にももちろん立ち食いそばはあったはずだと調べてみると、都内の駅に立ち食いそばができるのは、わかっているだけ で、64年品川駅、66年荻窪駅、70年新宿駅というのだが、駅以外にも立ち食いそば店はあったわけだが、それを年表という形で取り上げるのは難しい。年 表は、ある出来事を時間軸のある一点のこととして定めないといけない。これが年表作りの難しいところだ。歴史を線や面ではなく、点で記述するしかないのが 年表なのだ。 ●1967年12月6日付けの日本経済新聞によれば、「100店舗を超える外食チェーン企 業は、不二家(180店)、養老乃瀧(156店)、伯養軒(130店)、アートコーヒー(109店)の4社」。まだ、吉野家も、マクドナルドもない時代 だ。まあ、それはいいとして、この「伯養軒」というのがわからない。この名にまったく記憶がない。そこで、インターネットで調べてみたら、現在は社名がか わっているが、かつては駅弁の製造・販売をしていた会社らしいのだが、実情がわからない。駅構内の駅弁売り場を「店舗」として計算しているのか、そのあた りがわからないのだが、そこでつかえてしまうと先に進めない。けっきょく、書いている本人が理解できないまま、この情報を書き写すことになり、その情報を また誰かが別の年表に書き入れる。年表はそのくりかえしだ。 ●1967年の部分に、こういう記述がある。「『まわる元禄寿司』第一号店が東京・錦糸町にオープン。一皿3コで50円。いわゆる回転ずしは、元禄寿司が同年夏に船橋ヘルスセンターに実験店舗をつくり、わずか一か月後に錦糸町への出店になったもの」 ●1978年12月「王将チェーン(ぎょうざなど中華料理の低価格販売)が東京進出第一号店を新宿のホテル・ワシントンパレス1階にテナント出店」。 年表作りは辞書作りと同じくらい大変な作業なのだが、同じように手間もカネもかけないから、同じように評価されないのです。というわけで、今夜は外食産業年表で遊んでしまった。
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アジア雑語林(162) 2006年11月7日
校閲読書 最近、本を買う量は「やや多い」という程度なのだが、読み残しが多すぎる。棚の未読コーナーには、順番を待っている本が常に5冊程度はあるのが普通だったが、いまは棚に入りきれず、床に十数冊積んである。 日記は、1997年2月9日のジャカルタから始まる。「今回はインドネシアの食を訪ねる旅である」そうだ。以下、気になった個所を箇条書きにしていく。 これで、まだジャカルタの一日分が終わらない。なんてこった。調べるのにくたびれたので、ページを飛ばしてタイ編をパラパラ読む。 たった数ページ読むのに、これだけ調べるのだから、読了するのは大変なのだが、この手の
本は内容がないので、読了する必要はない。しかし、「アジアの勉強」の練習問題集だと考えれば、アジア研究専攻の大学生のテキストに充分使える。本文のど
の部分が、どうおかしいのか気がつくだけでも、けっこう知識が必要で、「おかしい」と思う個所の校閲をやるには、もっと深い知識と根気が要求される。皮肉
で言っているのではなく、校閲は本当に勉強になる。「人のふんどしでお勉強」である。
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アジア雑語林(161) 2006年10月25日
日本橋上空 いつのことか思い出せないが、初めて日本橋を見た時の印象は、「ああ、なんてことをして
くれたんだ」というものだった。橋の上を高速道路が覆っている。日本の役人は、こういうことを平気でできる神経の持ち主なのだ。いや、役人だけじゃないだ
ろう。東京オリンピックを前にして、人々は浮かれまくっていた時代で、当時の映画を見ると、意味もなく都内の高速道路をドライブするシーンが出てくる。煙
突から出る煙が、繁栄のシンボルに思えていた時代で、「近代的」はすべてプラスの評価だった。
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