シルクロード見どころマップ
ウズベキスタン タシケント
人口210万を超えるウズベキスタン共和国の首都。紀元前2世紀まで遡る長い歴史を持つオアシス都市で、中国の歴史書にもしばしば石国の名で登場する。しかし町が現在のような形になったのは帝政ロシアの支配下に入ってから。19世紀にはコーカンド・ハーンの支配の下、中継貿易で栄え、中央アジア最大の町(当時人口7万)だったが、1867年にここを占領したロシアは、トルキスタン総督府を置き、中央アジア全体の植民地経営の拠点とした。
チャルス・バザール
地下鉄チャルス駅を出るとバザールのど真ん中に出る。タシケントの中でも例外的にウズベク色というか中央アジア的な雰囲気が濃厚な地区だ。青緑色の屋根付きバザールとその周囲には、近郊の町や村から出てきた人々の出店がひしめいている。ハシュト・イマーム
ソ連時代、イスラム教は他の宗教同様に抑圧されたが、第二次大戦に際し、国内ムスリムの支持が必要になったことや、その後の冷戦でイスラム諸国を自陣営に引きつける目的で、表面的ながらもイスラム保護の政策が採られるようになった。ハシュト・イマームとはチャルスの北約1kmにある三叉路の名で、中央アジアにおける公式イスラム教の中心だった場所だ。フェルガナ盆地
フェルガナは、歴史的にイスラム圏ではファルガーナー、中華世界では大宛と呼ばれてきた。現在の国境はソ連時代に引かれたもので、本来のフェルガナ地方はウズベキスタンだけではなく、キルギスのオシュ周辺やタジキスタン北部も含まれる。面積は四国とほぼ同じ。
フダヤル・ハーンの宮殿
ムキミー公園内にある。コーカンド最後のハーン、フダヤルが1873年に建てた宮殿。ただし完成からわずか3年後の76年に内乱が発生し、敗れたハーンはロシア領へと亡命。直後にロシアが軍事介入し、ハーン国は亡んだ。マーダリ・ハーン廟
コーカンド・ハーン国が、最も盛えていた時期のもの。マーダリ・ハーン(ハーンの母の意味)廟はマダリー・ハーンが母親のために1825年に建てた。全体として傷みが目立つが、屋根部分は鮮やかな青色のタイルで覆われている。サマルカンド
シルクロードの一大中継地点として名をなすサマルカンド。古代にはマラカンダと呼ばれ、紀元前3世紀には、その都市文明のレベルの高さにアレクサンドロス大王が感嘆したという。その後、様々な民族の支配を受けながらも、16世紀頃までは文明の中継点として常に時代の流れの中にいた。特にティムールの時代には帝国の首都となり東西から多数の建築家が集められ、今の美しい『青の都』が生まれた。
ウルグ・ベクの天文台跡
ティムールの孫ウルグ・ベク(1393-1449)が造った天文台。ウルグ・ベクは帝国の統治より学問や芸術に深く興味を持ち、イランを中心に各地から高名な学者を招き、学問の発展に努めた。サマルカンド歴史博物館
7世紀の領主の家から発見された壁画には、当時のソグド人たちの生活が描かれており、アラブ人の侵入以前の繁栄ぶりをうかがわせる、青地を背景に、ひとこぶラクダに乗った2人の外国人の使節、白鳥、象に乗った花嫁など、当時の様子が鮮やかに描かれている。レギスタン広場
サマルカンドのハイライト。レギスタンとは砂の広場の意味。向かって左からウルグ・ベク、ティッラ・カーリー、シールダールの3つのマドラサ(神学校)がコの字型に並ぶ。これらのマドラサはイランのシーラーズ出身の建築家によるものといわれている。ブハラ
ブハラ州の州都で、人口は約22万人。中央アジアではサマルカンドと並ぶ文化遺産の宝庫だが、その雰囲気はまったく異なり、ブハラの方がより伝統的な都市の姿を保っている。長い歴史を持つ都市は、その位置や造りが時代によってある程度変化するものだが、ブハラの旧市街の主要な建物の配置は9世紀以来ほとんど変化していない。
カラーン・モスク
タジク語で大モスクという名の通り、約1万人の信者を収容できる巨大な金曜モスク。ここは795年アラブ人により最初のモスクが建てられて以来、常に金曜モスクが置かれてきた場所。ウルグ・ベクのマドラサ
サマルカンドの同名のマドラサより早く、1417年に建てられた。こちらが先だったのは、当時ブハラで勢力を持っていたナクシュバンディー派のウルグ・ベクへの反感が強かったため、その支持を得るためではなかったかと考えられている。ホラズム地方
ホラズム地方はホラズム州を中心としたアムダリヤ川下流のデルタ地帯のことであり、今ではウズベキスタンとトルクメニスタンの2国に分割されている。
ここではアムダリヤ川の水を使った灌漑農業により、非常に早くから都市が発生し、以後現在に至るまで、マーワラー・アンナフル(ソグディアナ=現ブハラ周辺)と並ぶ、中央アジアのオアシス文明の中核となった。しかし同時に非常に乾燥した気候のため、川の流れの変化の度に、しばしば都市は消滅した。
トプラック・カラ遺跡
ウルゲンチから北東へ50km。紀元前1世紀から5世紀にかけての都市遺跡。ホラズムの古代遺跡の中では最も保存状態がよく、特に城塞の部分には、日干し煉瓦でできた3層(約25m)からなる3つの塔と、城壁に囲まれた王宮が残る。ヒヴァ
ヒヴァは町そのものが博物館であるといわれる。これは誇張ではなく、伝統的なオアシス都市の景観が、文字通りそっくり保存(一部は再現)されているのだ。ヒヴァは、もともとブハラなどに比べれば小さな町であり、16世紀にヒヴァ・ハーン国の都が置かれた後も、町はほぼ現在のイチャン・カラ(旧市街)の内側に収まっていた。しかし18世紀末になりロシアとの交易が活発になると、状況は一変する。ハーンや王族は流れ込んだ富で競うようにモスクやマドラサ、宮殿を建設し、古いものには改修を加えた。その結果、イチャン・カラの狭い空間の中に大規模かつ壮麗な建築物が、所狭しと密集するようになった。
ムハンマド・アミン・ハーンのマドラサ
1851〜55年にかけてムハンマド・ラーヒム・ハーンの命により建設された。当時は町でも最大のマドラサで、豊かなワクフに支えられ、学生のための宿坊もヒヴァでは初めて2部屋のものが導入された。カルタ・ミナール
当初は中央アジアで最も高いミナレットを目指して建築が始められたが、1855年にハーンが遠征中に戦死したため、26mの高さで中止された。色付きタイルをふんだんに使った外側の装飾は、この時代特有のもの。コフナ・アルク
古い城塞(内城)という意味。新宮殿であるタシュハウリ完成後、それと区別する意味でこう呼ばれるようになった。