◆忘れられた偉業
以前、短い間ではあるが東ロンドンのテムズ河南側に住んでいたことがある。カウンシル・ハウス(公営住宅)の無味乾燥なフラットが立ち並ぶ、若いシングルマザーやガラの悪い黒人の少年たちが昼の最中から手持ち無沙汰にぶらぶら散歩しているような地域だった。
周知の通りロンドンはチューブ(地下鉄)の街だ。東西南北、網目のように各路線が入り組んで走っている。二〇〇六年現在、中心部《ゾーン1》の初乗り料金が三ポンド(約六四〇円)というご無体な料金であることと、うんざりするほどたびたび遅れることを除けば、これほど便利な交通もない。
閉鎖空間が苦手で、渡英直後は狭く息苦しいチューブにはなるべく乗らないようにしていた。けれど地上を走るバスは時間がかかるうえ、チューブよりも料金が安いため、地域によっては客層もあまり品がよくなかった。通勤・通学の必要に迫られて、いつかチューブは生活になくてはならない大事な「足」になっていた。
当時の地図上の最寄り駅は徒歩一分、ローザハイト駅という目立たない小さな駅だった。イースト・ロンドン線という、区間も短く他の路線との連絡も中途半端な、まったく使えない路線の途中にある駅だった。あまりに使い勝手が悪いので、少し遠いがジュビリー線のカナダ・ウォーター駅まで歩いていた。ローザハイト駅を利用したのはほんの数回で、なぜこのようなコンセプトのよく分からない路線が存在するのだろう、と不思議に思っていた。実を言うと、駅名を何と読むのかもよく分かっていなかった。
今回、ロンドンの地下世界についての本稿を書くために下水道や地下鉄の歴史を調べていたら、唐突に、この「ローザハイト(Rotherhithe)」という地名に遭遇した。
ローザハイト駅はテムズ河南岸から数十メートルの地点にある。対岸のテムズ河北岸は、一九世紀のビクトリア朝時代、飛ぶ鳥を落とす勢いだったイギリス経済の物資が保管されていた倉庫が立ち並んでいる。
ローザハイト駅から北行きに乗ると、ほとんど息つく間もない一分間未満で対岸のワッピング(Wapping)駅に着く。地下を走るのが地下鉄だから、真っ暗なトンネルの中を走るのはあたりまえだ。だから気づかなかったが、このトンネルはテムズ河底を通っている。
そういうことだったのだ。
ほんの数十秒で通過してしまうこのトンネルには、地元の若い住人たちにはおそらくほとんど知られていない、驚くべき歴史があった。その歴史は、今から一五〇年以上前の一九世紀前半に遡る。
◆一九世紀のテムズ河
下水道整備の歴史ともリンクするのだが、一九世紀のテムズ河は「化け物スープ(Monster Soup)」とまで揶揄されるほど水質汚染が深刻化していた。中世から何世紀にもわたって下水道設備の整備が叫ばれてきたのに、ますます近代化する一方のロンドンで、工場排水や屎尿はきちんとした処理をされないまま、垂れ流されていた。
そのせいで、ロンドンは一九世紀初頭から数回にわたってコレラの大流行に見舞われ、合計二万人以上の死者を出している。また一八五八年夏には、猛暑のあまり暖まったテムズ河の臭いがあまりにすさまじく、河沿いのウェストミンスターにある下院議会が他所で開催される騒ぎとなり、「超悪臭現象(the Great Stink)」と名づけられたりもした。
そんな不衛生で悪臭の源だったテムズ河ではあるが、それでも一九世紀当時はイギリス経済の交通の要衝だった。常時、三〇〇〇艘を超える商船が停泊し、その間や桟橋を行き来する何千もの小船が川面を埋め尽くしていた。そこで大問題だったのは、テムズ河の北側と南側を結ぶ交通の不便さだ。北側には政府各機関や輸出入に関する重要な機関が集まり、南側には大規模な倉庫が連なっていた。
テムズ両岸を結ぶ橋は、かの有名なロンドン橋を筆頭にすでに三〇前後あった。が、限られた数しかない橋は常に大渋滞しており、商人にとっては、橋のために迂回する時間のロスも惜しかった。しかしそれ以上新たな橋をかけると大型船の航行の邪魔になる。当時はまだ、現在のタワー・ブリッジのような跳ね上げ式の橋を建てる技術がなかった。
それなら河底にトンネルを掘ろうではないか、と具体案を打って出した人物がいた。
フランス人のマルク・ブルネル(Marc Isambard Brunel)という土木技師だった。
◆奇才とフナクイムシ
ノルマンディー地方の田舎町に生まれたブルネルは、若くしてアメリカに渡ってニューヨーク市の土木技師になったのち、イギリス人の恋人を追って渡英し、イギリスに居を構えていた。彼は優れた技術者で、五五歳でテムズ河底トンネルの掘削計画を提案するまでに、ブーツ制作機、初期のミシン、手紙印刷機など、数々の「工作機械」を発明し、特許を取っていた。
実はテムズ河の底にトンネルを掘ろうという試みは、それまでにも何人かの技術者が取り組んでいた。一八世紀の終わりには、大サリー運河を設計したラルフ・ドッド(Ralph Dodd)が、一九世紀初頭には、蒸気エンジンのデザインをしたリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)らがテムズ河底にトンネルを掘ろうとしていたが、いずれも失敗に終わっていた。
石灰分を多く含んだロンドン一帯の地盤は柔らかい。河底を掘るためには、そんな崩れやすい地盤を出水からどのように守るかをまず考えなくてはならなかった。
発明家ブルネルは、シールド工法と呼ばれる掘削法を考え出した。そのヒントは、二枚貝の一種であるフナクイムシから得たという。
ブルネルはもともとはナポレオン治世下のフランス海軍の技術者だった。船舶の船底に棲み着いて木材を食い荒らすフナクイムシの生態を研究した経験から、穴を掘り、木屑を唾液で固めながら進むフナクイムシのやり方をトンネル掘りにそのまま応用できないかと考えたわけだ。
ブルネルのテムズ河底トンネル工事は一八二五年に始まった。
「シャフト」と呼ばれる中が空洞の円筒状の立坑を自重で地中に垂直に沈め、そこからフナクイムシ方式に横穴を掘っていく。シャフトが完全に地中に沈んだら、筒状の掘削作業場である「シールド」を降ろし、最前面で掘削するそばから、後方に次々とレンガを積んでいって崩壊を防ぐのだ。
当時としては画期的な最先端技術だったのだろうが、フナクイムシにヒントを得たというエピソードといい、実際の工事のやり方といい、現代のわれわれから見たら、究極的にアナログな方法としかいいようがない。それでもなお、このシールド工法は、数々の改良を加えられながら現代のトンネル掘削技術の基礎となった偉大な発明だった。
現在ではコンピュータ制御で巨大なカッターが最前面で掘削を進めるが、ブルネルの時代は、最前面にいたのは人だった。シールドの最前面に人ひとりがやっと入れるくらいの枠で区切った鋳鉄製のフレームを設置し、枠のひとつひとつに作業員が収まって手作業で土を掘った。
作業員には熟練の炭坑夫たちが雇われた。シールド後方で隙間なくレンガでトンネルを固めるのは、こちらも熟練のレンガ工たちである。掘り出した土や砂利は人足が運んだ。
河底を頭上に控えた地中での作業には常に危険がともなう。それだけに破格の高給が支払われる現場だった。炭坑夫には週払いで、レンガ工には積んだレンガの出来高制で賃金が支払われた。
◆トンネル掘りに賭けた男
当初、ブルネルは約三年間でこの工事を終えることができると踏んでいたという。しかし度重なる出水による死亡事故や資金難によって、工事は長引くだけ長引いていく。実際、地中深くの掘削場は過酷な現場だった。ダイビングをするときと同じように圧力がかかり、粉塵や酸欠、換気の悪さによる呼吸障害も引き起こした。
途中、弱冠二〇歳で現場主任となったブルネルの息子アイザムバード・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel)も、出水事故で他の作業員とともに溺れ、九死に一生を得ている。アイザムバードは天才肌、完璧主義の技術者で父親の片腕となって活躍していたが、この事故のあとブリストルで療養中に設計した鉄道建設コンペに勝ち、以後、鉄道や造船のほうで名を成していくことになる。
五五歳のブルネル父が始めたテムズ河底トンネル工事は、実に一八年の歳月を経て、一八四三年、ようやく完了した。文字通り手探りで成し遂げた、世界初の河底トンネル工事だった。その業績を称えられて、ブルネルはそれに先立つ一八四一年には時の女王ビクトリアからナイトの称号も授けられた。ビクトリア女王の夫君アルバート公はオープン直後にトンネルを徒歩で通っている。
それにしても、一八年、である。公式記録の死者は七名だが、工事全体を通して間接的に健康を害して亡くなった関係者は二〇〇人近いといわれている。皮肉なことに、当初は馬車による荷運搬を想定していたのに、だからこそ最初から往路用と復路用に二本のトンネルが並行するように設計してあったのに、トンネルが貫通するころにはシャフトに車両が通れるようなスロープを敷く資金がなかった。
その代わり歩行者が通れるようにらせん階段が取り付けられた。最初の一年間で約二〇〇万人もの通行があったが、時が経つにつれ、売春や犯罪の温床になっていく。そんな状態を憂慮したイースト・ロンドン鉄道がこのトンネルを購入し、一八六九年、世界初の「トンネル地下鉄」がこの区間を走った。
これより六年前の一八六三年に、パディントン駅(Paddington)〜ファリングトン駅(Farrington)間に世界初の「地下鉄」が開通しているが、こちらは地中を掘り進んだトンネルを走ったのではなく、地上に溝を掘ったのちに蓋をした、地上近くの浅い地点を走る列車だったという点が大きく異なっている。
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| 料金が高い、狭い、遅れる、夏は熱地獄。文句はいろいろあれども、便利は便利なロンドン地下鉄 |
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| ワッピング駅からテムズ河対岸を望む。河幅は約460メートル。たったこれだけの距離を掘り進むのに、18年かかった。 |
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| シールドの模型。地中に沈めたシャフトから、このシールドを降ろして横穴を掘り進める。模型の右側にあるのが鋳鉄製のフレーム。ここに人が入って土を掘り出した。後方ではレンガ職人がレンガを積んでいく。 |
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| ブルネルのテムズ河底トンネルは、往来が立て込まないよう2本を並行させる方式だった。オリジナルのトンネルが、補強され今でも現役で使われている。ワッピング駅にて |
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マルク・ブルネル
Marc Isambard Brunel(1769─1849)
もともと父親の希望で宗教家になる勉強をしていたのに、途中で数学方面に進み勘当される。人生後半はテムズ河底トンネルに全てを捧げたといっても過言ではない。負債を抱えて支払いができずに投獄されたこともあったが、「このように有益な男を牢獄に閉じ込めておくのは国の損失だ」と政府が負債を肩代わりして釈放されるなど、いかにもイギリス的な逸話がある。
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アイザムバード・ブルネル
Isambard Kingdom Brunel(1806─1859)
BBCが2002年にアンケートを行った「最も偉大な英国人100」で、ウィンストン・チャーチルに次いで堂々の第2位に選ばれた。グレート・ウェスタン鉄道やクリフトン橋の建設などイギリスにとって極めて重要なインフラの整備に尽力し、またアメリカ大陸とのより効率的な交易のための大型船舶の造船でも名を馳せた。しかし鉄道建設の資金繰りなどの心労で53歳で急死。右の写真がこの人。
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◆シャフトを登る
ブルネルの時代から一世紀以上が過ぎたこの夏、かつて何の注意も払っていなかったローザハイト駅に行ってみることにした。カナダ・ウォーター駅でジュビリー線からイースト・ロンドン線に乗り換えてひと駅。駅のホームは、他の路線の一般的なホームと比べると極端に短い。ホームから改札に上がる途中の階段部分のレンガは、おそらく地下鉄開通当初のオリジナルのものだろう。地上に上がって上からもう一度全体像を確認しようとしたら、期せずして「ブルネル記念館(The Brunel Engine House)」の表示が目に飛び込んできた。
住んでいるときはまったく知らなかったが、駅のすぐ裏手に、この偉大な河底トンネル工事を行ったブルネル父子の記念館があった。建物はもともとはトンネル内に溜まる水の排水設備の動力を提供するエンジン・ハウスだったといい、その横には巨大な円筒形の建造物があった。
「シャフト(立坑)だよ」と記念館の管理人のおっちゃんが教えてくれた。ここを入り口にして地中に縦穴を掘り、そこから河底に向かって横穴を掘ったのだな。見ればすぐ先に小さな公園があり、そこからテムズ河対岸の倉庫群が並んでいるのが目に入る。
対岸はすぐそこだった。実際、ブルネルは一番河幅の狭い地点としてここを選んだのだ。
ちらほらと小船や観光船などが浮かんでいる以外、二一世紀のテムズ河はわりと閑散としていた。かつてこの河が一面商船で埋め尽くされ、ついでに強烈な汚臭を放っていた名残りはなかった。ごくごく穏やかな感じで暇そうな波がざざざと打ち寄せていた。
「ワッピング駅では、オリジナルのトンネルが見られるからね、一番後ろに乗りなさい」
管理人のおっちゃんに言われたとおり、車両の一番後ろに乗って、対岸のワッピング駅に向かった。降りた途端、丸い断面を覗かせた二本のトンネルが目の前にあった。補強はされていたが、もちろん、ブルネルが一八年間かけて貫通させたトンネルの最後の断面である。改札へ向かう道筋は、シャフトそのものだ。ローザハイト側では封鎖されていたシャフトは、ワッピング駅ではそのまま利用されて地上との連絡路になっている。エレベーターに乗ることもできるが、ここは当然、らせん階段を登っていくことにする。
ひんやりした巨大な円筒形の中をぐるぐる回りながら上がった。壁のレンガ造りは、老朽化してはいたが、まだまだ十分に堅牢であるように見えた。ロンドンの地下鉄全体を見渡せば浅いほうではある。それでも、直接ほんもののシャフトの中を歩いていると、地下二〇メートルというのはとてつもなく深い。明るい照明のなかった時代、こんな地中でひたすら穴を掘っていた人たち、怖くなかったのかしらん、などと軟弱な現代人は思う。まあ筋金入りの炭坑夫の皆さんのことだから、大丈夫だったのでしょう、たぶん。
しかしまあ、時代の要請だったとはいえ、河底にフナクイムシ方式でトンネルを掘るとは、やっぱりちょっと無茶である。そういえば、ブルネル記念館の管理人のおっちゃんに、一日に何人くらいの来訪者がいるのか聞いてみたのだった。
「きみで、今日は五人目」
イギリスのみならず、世界の地下トンネル網を文字通り底から形作った人物の記念館としては、あまりにささやかな数ではなかろうか。
◆地下鉄と地下生活
ロンドンの地下世界は、電力、電話線、ガス、上下水道などの無数のトンネルによって形成されている。このうち、ビクトリア時代に整備されたトンネルやパイプを今でも使用している率はかなり高いといえるだろう。
二〇〇六年夏、猛暑で深刻な水不足に苦しんだロンドンでは、昨年に引き続き今年も庭のホースによる水まきが禁止になった。それにもかかわらず水道料金は値上げされる一方で、「水不足だなんだと騒ぐ前に、老朽化したパイプによって漏れる膨大な量の水をなんとかすべき」と、連日、ロンドン市民は怒りに燃えている。
そして冒頭でも書いたとおり、ロンドンのもうひとつの地下世界は、なんといってもチューブ(地下鉄)を抜きには語れない。一八六三年に最初に開通したメトロポリタン線を筆頭に、現在、一二路線が走っている。
いまは一括してロンドン市交通局の管轄下にあるが、これらの路線はかつてはそれぞれ別個の独立した私営線だった。熾烈な地下のルート争いが火花を散らしていたのである。その結果、他線の駅とあまりに至近すぎて利用客を奪われたり、拡張するはずの路線が計画倒れになったりして閉鎖に追い込まれた駅が四八駅もあることは、意外と知られていない。
そんな閉鎖駅のひとつに、アルドウィッチ駅(Aldwych)がある。コベントガーデン駅(Covent Garden)やホルボーン駅(Holborn)に近く、何度か閉鎖されたりまた復活したりしていたが、一九九四年に完全に閉鎖された。アール・ヌーボー調の美しいタイル装飾や内装が保存されているため、閉鎖後は映画などの撮影に頻繁に使われている。
このアルドウィッチ駅を含め、ロンドンには、第二次世界大戦中にシェルターとして使われた地下鉄駅がいくつか存在する。アルドウィッチ駅では大戦中、クリスマス・コンサートが開かれたり、大英博物館のミイラもここに避難させられたりした。
アルドウィッチ駅のように駅舎がそのまま食堂やドミトリーに改造されたシェルターもあれば、駅に隣接する形であらたに作られたシェルターもあった。現在、パンクロック健在な若者の街としてにぎわうカムデン・タウン駅もそのうちのひとつだった。
◆なぜ、人は地下に潜るのか
いささか陳腐にすぎる疑問ではある。河底トンネルや、シェルターとしての地下鉄駅などに関しては、必要性があったことが容易に理解できる。おそらく、近現代における地下世界というのは、ほぼ全て間違いなく必要性の産物なのだろう。
それでもなお、イギリスの国民的SFドラマ「ドクター・フー(Dr. Who)」のタルディス(TARDIS=time and relarive dimension in space)のように、地上部分は何の変哲もない小さな建物なのに、内部(この場合は大いに「地下」という概念も含むと筆者は個人的に思う)に時空を超えた世界が広がったり、ニール・ゲイマン(Neil Gaiman)のファンタジー小説「ネバーウェア(Neverwhere)」のように、ロンドンの地下に存在するまったく異質な別世界が描かれたりすることをかんがみると、やはり、地面の下というのは、人間の想像力と憧れをかきたてるロマンのようなものがあるのではないかなあと、ブルネルのシャフトの階段をぐるぐる回りながら、思った。 |
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| ベイカー・ストリート駅のホーム。1863年、世界初の街中を走る地下鉄として開通したメトロポリタン線は、パディントン駅‐ファリングトン駅の間を約6キロ走った。このベイカー・ストリート駅はオリジナル7駅のうちのひとつである。当初メトロポリタン線が使っていたこのホームは、現在はハマースミス・シティ&サークル線が使っている。 |
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| 地上にあるファリングトン駅のホーム。ファリングトン駅は1863年のメトロポリタン線開通当初、一番東の終点駅だった。この路線は溝を掘ってあとから蓋をする方式だったため、地上を走る部分も多い。 |
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| 1994年に閉鎖したアルドウィッチ駅の跡。1907年のオープンから10年間はストランド駅と呼ばれていたが、1917年にアルドウィッチ駅と改名された。出入り口だったと思われる部分には3分間証明写真のブースが埋め込まれている。 |
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アルドウィッチ駅探訪ツアー
ロンドン交通博物館(London Transport Museum)が不定期に行っている。 |
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【参考文献】
「Subterranean City Beneath the streets of Londpn」Antony Clayton Historical Publications Ltd 2000
「Londonユs Underground」H.F. Howson Ian Allan Ltd 1986
The Brunel Engine House
http://www.brunelenginehouse.org.uk/index.asp |
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